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私の骨髄提供体験記

「暑いねー、のども渇いたし献血でもしていこうか!」そんな動機で入った献血ルーム。そこで私は「チャンス」を手にしました。 「チャンス」を見る前の骨髄採取のイメージは、子供の頃に見たテレビの映像でした。物々しい手術室での採取の様子。丸いパイプのようなものを、背中に突き刺して採取をしていました。もちろん背中には丸い輪がたくさん残っています。そのパイプは採取針を固定する為の物だったようですが、それを知らずに見ていた当時の私の目には、とても恐ろしい物に見えました。「あんな物で骨髄を抜かれるんだ」と。
それを見た私は、「いくら人の命を救えるとしても、こんなこと絶対できない」と思いました。それが「チャンス」を見てびっくり。「な〜んだ。注射器でできるようになったんだ」これならば登録しない訳にはいかないと意気込んでいた私でしたが、親の同意を取ってからと思っているうちに月日が流れていきました。


そんな時、遠藤允さんの「21歳の別離」を読みました。本の主人公・中堀由希子さんは、私と同じくらいの年でとても身近に感じられました。白血病と闘い、各地で講演会やシンポジュームなどで訴え続ける由希子さんの姿に胸ジーンと熱くなりました。それと同時に、「1日でも早く登録しなければ!待っている患者さんがいるかもしれない」という思いに駆られました。
そして、この本を通してボランティアの存在を知り、いつか私もやってみたいなと思うようになりました。


登録をした日から、郵便受けを見るのが楽しみでした。しかし、なかなか適合通知が届きません。やっぱりだめだったのかと半ば忘れかけていた1ヵ月後、骨髄移植推進財団からの封筒が届いていました。
これは!と思い封を開けると、待ちに待った適合通知です。「やったー!!バンザーイ!」と、飛び跳ねながらの万歳三唱。「やったー!」と思う反面、「もう少し早く登録していれば、患者さんが助かる確率も高かったかもしれないのに…」という悔しさに似た思いもありました。

父に、「骨髄提供するかもしれない。適合者がいたんだって!」と報告すると、とても驚き、さびしそうな顔で、「死んでからじゃないと提供できないんだろ?」と聞き返してきました。登録する際に、きちんと説明していたのにこんな答えが返ってきたので、とてもびっくりしてしまいました。もう一度説明をし、再度同意をもらうことができました。


早速会社を休み、2次検査へ行きました。
どんなことをするのかな?と楽しみにしていた私でしたが、検査は簡単なもので、30ccを採るだけですぐに終わってしまいました。それも、腕に針を刺し、小さな血液パックを計りの上に置いての採血で、何もしなくても血液パックの中に入っていきます。献血装置を使うわけでもなく、あっという間に終わってしまいました。なんとなくつまらなさを感じた2次検査でした。


この頃の私は、母の死を受け入れる事ができなくなっていました。母が他界したのは高校2年生の頃です。子宮筋腫の手術をしたものの、その後に癌を発病し、それが原因での死でした。母は高齢出産でしたので、私は同級生のお母さんたちと比べ、「なんで年取ってから私を産んだの?くそばば!!」といつも母を傷付けてばかりいました。投げかけた言葉の暴力は数え切れない程です。母の傷付いたさびしそうな姿が今でも忘れられません。父も、すぐにかっとなり、母によく手を上げていました。そんな状況の中、親孝行をすることもできないまま、母は他界したのです。

「母は、なんの為にこの世に生まれてきたのだろうか、こんな苦しい思いをしてまで…私が生まれてこなければ、もっと幸せになれたかもしれないのに」そんなことを考えては、落ち込んでばかりいました。
そんな時、骨髄バンクからの適合通知が届いたのです。その知らせを聞いて大喜びし、また、母の生まれてきた、そして私が生まれた意味が分かったような気がしました。「母は、この人を助ける為に生まれてきたのかもしれない。母が生きていたからこそ、この人を助けることができるんだ」その時、母の生きてきた人生と、私のこころが救われた気がしました。

もう、一人の体じゃない。患者さんの為にも、頑張らなくちゃ。苦しくても、生きていかなくちゃ!とこころに強く思いました。


3次検査の知らせが来るまでには、かなりの時間がかかりました。時々思い出しては、型が合わなかったのかなぁ…と残念な気持ちになっていました。ところが、もうダメなのかと諦めていた半年後に、案内が届きました。またまた、両手を上げての万歳三唱。嬉しくて嬉しくて。「神様、お母さん!どうか、3次検査も通って、提供出来ますように。お願いします!!」と母の写真に手を合わせる毎日でした。

3次検査は、母の入院していた病院で行いました。。この検査からは、コーディネーターが付きます。私の担当は、女性の方でした。
採血は前回とは違い、がっちりとした箱の中に入れられている採血管を使いました。それを見た私は、「いよいよだな」と気の引き締まるような思いがしました。 3次検査には、血液凝固のため、2度出向きました。患者さんに提供するのが遅くなるじゃないの!という苛立ちの反面、何度もこの不思議な体験が出来るなんてという嬉しさもありました。
どうか、患者さんと一致しますようにと母の仏壇に手を合わせる毎日でした。ここまで来て、合わなかったらどうしよう…という不安もありました。こころは完全に提供出来るつもりでいるのに、ショックだろうな…


ある日、会社にコーディネーターさんから電話がかかってきました。
「患者さんと適合しました。最終同意へ進んでもよろしいですか?」とのこと。勿論、元気良く「はい!!!」と答えました。
「やったー!やった-!!」こころの底から嬉しさが込み上げてきて、涙が出てきました。提供できるんだ!!!と。

それから1週間もしない頃、父から貧血で病院へ通っているということを聞きました。週に一度の通院。注射と投薬治療。もしかして…と思いました。その時の私は、父の体を心配するよりも、提供できなくなるかもしれない…という思いの方が強く、泣いてばかりいました。「いつもいつも、父のせいで!!!」と悔しい思いにも駆られ、最終同意の日程が決まるまで泣いてばかりいました。母に、「提供できたら、父のこと恨むのはやめるから、許すから…どうか提供できますように」と祈り続けました。結局、提供には支障がないということで、最終同意へと進むことができました。


その間、押し入れで眠っていた「食品成分表」を引っ張り出し、鉄分が多く入っている物は何?どのようにしたら吸収しやすいの?といろいろ研究しました。
また、事故防止の為に自転車に乗るのをひかえ、歩くにしてもとても慎重になりました。風邪を引かないようにと1日に何度もイソジンでうがいをし、かえって喉を痛めてしまったというハプニングもありましたが、無事その日を迎える事ができました。


入院は採取の2日前でした。1日目は病院に慣れてくださいとのこと。6人部屋の窓際のベッド。
始めのうちは、同室の人と打ち解ける事ができず、「健康な私がここに居ていいのだろうか…早く採取して病人らしくなりたい」という思いが強く、1日中友達に手紙を書いたり、窓の外をぼんやり眺めていました。


2日目は朝一番の採血から始まり、心電図、レントゲン検査などを受けました。
行く先々で、「ごくろうさまです」と声をかけられ、「異常無しですね!あっ、ここで引っかかったら、大変か(^^)」と、和やかな雰囲気で過ごすことができました。嬉しさと緊張が入り混じった不思議な感じでした。
一番戸惑ったのは、麻酔科の先生からの質問でした。「全身麻酔をかけますが、腰椎麻酔はどうしますか?かけるか、かけないかは明日までに決めてください」とのこと。予想していなかった問いにとても戸惑いました。主治医の先生に相談すると、「以前、胆石を持っている方の採取の際に両方使ったことがあるが、その他は全身麻酔で行いました」とのこと。結局、相談の上、腰椎麻酔はかけないことにしました。

同室の患者さんに、「こんなことしなければ良かったって、後悔したりしてない?」と聞かれました。もちろん、「後悔なんかしていません。それよりも、とっても楽しみです!」と笑顔で答えていました。全身麻酔はこどもの頃に経験していましたし、全く不安はありませんでした。それよりも提供できるんだという喜びの方が大きく、夜にはなかなか寝付くことができませんでした。

巡回の看護婦さんが来るたびに、「こんばんは…」と思わず声をかけてしまい、びっくりされました。随分遅くまで寝れずにいる私に、睡眠薬を持ってきてくれたました。飲むつもりはありませんでしたが、「水を飲んではいけないと言われているのに、どうやって薬を飲めばいいの?」と不思議に思い、考えをめぐらせました。けれども、そんなことを考えているうちにいつの間にか眠りについていました。


採取当日。手術着に着替え車椅子での移動。
手術室には、歩いて入室しました。「歩いて入るなんて初めてかもね」という看護婦さんや、先生たちの笑顔に見送られちょっと嬉しくなりました。

ストッレチャーに寝転んで見る手術室。母は、どんな気持ちでこの風景を見たのだろうか…不安だったろうな…と、亡き母の姿が頭をよぎりました。
でも私は健康体。こんな経験が出来るなんて!と、とても張り切っていた私でしたが、麻酔がかかると、天井のランプが白くぼやけて、瞼が重くなってきました。重い…。1度は目を閉じたものの、開けられるのかな?という好奇心で目を開けてみました。開いた!でも、瞼が重い。自分のチャレンジにちょっと恥ずかしくなったのと、瞼の重みに耐えられず目を閉じ、「臼井さん、お疲れ様」という声で目を覚ましました。

そこは手術室。前日あまりよく眠れなかったので、あー寝た!という感じで、すっきり目が覚めました。「早く終ったので、自己血は半分だけ入れました」という会話をふんふん、と寝ぼけた頭で聞いていた後、白衣を着た主治医の先生が、「お疲れ様」とやさしく声をかけてくれました。先生来てくれたんだ…という安心感でほっとしました。

採取後しばらく回復室で迎えが来るのを待ち、病室へ戻りました。移動中、周りをきょろきょろすると、先生が3人、そして看護婦さん。私はたくさんの先生たちに囲まれて移動していました。病棟へ入ると、「あらー、大切にされてること!」と看護婦さんが笑顔で迎えてくれました。
ベッドに移る時には、それこそ何人もの手で移動させられ、「軽いねぇ」という言葉は慰めにしか聞こえませんでした。私ってそんなに重いのかしら…と。


病室に戻ってからは、テレビを見て過ごしました。たっぷり寝ていたので、眠気はありませんでしたし、予想していたような、ズキン・ズキンという痛みもなかったので、のんびりできました。

採取後は、少し腰に重だるさはあったものの、気になるほどではありませんでした。起きあがると傷口がピリピリしましたが、動かなければどこも痛いところはありませんでした。吐き気もなく、「ほんと、健康だね!」と主治医の先生にも誉められました!?

一番つらかったのは、採取前から続けている点滴でした。手の甲にしている点滴が苦しくて苦しくて、夜中に何度も目を覚ましました。
お腹がすき過ぎて気持ちが悪くなり、起きたこともありましたが、巡回の看護婦さんに相談し、同室の方から頂いたさくらんぼを食べました。しばらくすると、気持ち悪さもなくなり、ぐっすりと眠りにつきました。


次の日には導尿の管が外れ、点滴を持って銀行や郵便局を行き来しました。元気な時にはさほどの距離でもないのに、途中で休憩を入れながらの行ったり来たり。腰を曲げるとズキンと痛むので、歯を磨く時など、大変なこともありましたが、めったに出来ない経験に大変さを感じるというよりも、ちょっと嬉しい気分になりました。
傷口のガーゼ交換の際、うつ伏せになる時に、ピリピリとかなり痛みましたが、病気ではないので、苦痛や不安は全くありませんでした。


入院は5泊6日。同室の人に、「もう少し居たいよ」ともらすと、「先生に頼んでみたら?」と言われました。しかしこの費用は患者さん持ち。これ以上延ばす事はできません。名残惜しさを残し退院しました。


退院当日は疲れやすく、ほとんど寝て過ごしました。歩く時にも、腰を深く曲げないように、気を付けてそっと歩いていましたが、2日後には支障なく過ごすことができ、自転車へ乗って買い物へも行きました。

退院して2日後、おそるおそる傷口のガーゼと絆創膏を取ってみました。どんな風になっているのかな…とちょっと不安で勇気がいりましたが、開けて見てびっくり。「わっはっは!」と大笑い。ただの注射の跡でした。こんな傷で痛いと言っていたのかと思うと、なんだか情けなくなってしまいました。
採取担当の先生から「採ってるこっちが痛そうだった」と聞かされていたのですが、あれは単なる脅しだったのだろうか?なんて思ってしまいました。

3日後に会社へ戻りました。その頃には、腰を曲げてもほとんど痛みはなかったのですが、念の為に痛み止めを飲んで行きました。体力が落ちているのではと心配しましたが、仕事には全く影響はありませんでした。

コーディネーターさんから、「人事担当の方以外には、骨髄提供での入院だということは言わないで下さい。提供日時が分かってしまうと困りますから」と口止めされていましたので、会社の人には「ボランティアの研修に行って来ました!」と嘘を付かなくてはいけませんでした。やはり、なんとなく心苦しさを感じ、「あまり突っ込んで聞かれませんように」と願いながら終わった職場復帰1日目でした。


数ヶ月後に、患者さんからお手紙を頂きました。峠も越し、退院を待つばかりですとの内容にとても嬉しくて、涙が止まりませんでした。手紙のやり取りは一度だけですが、患者さんとの距離が近づいたような気がします。私にとって、頂いた手紙は一生の宝物で生きていく支えと言っても過言ではありません。
私は、ただ骨髄を提供しただけで、それよりもたくさんのものを患者さんや、多くの方々から頂きました。それは、「命の尊さ・すばらしさ・生きていく勇気」です。お金では買えない素晴らしい贈り物です。

3年以上経った今では、採取跡は全くわからなくなってしまいました。少しぐらい残っていてもいいのになと、さびしい気持ちにさえなってしまいます。
提供後に、骨髄バンクのボランティア活動に加わりました。バンクのたすきを掛けてマラソン大会に参加したり、チラシ配りをしたりと、とても楽しい日々を送っています。走ること、そして私が元気でいることで、患者さんにパワーが伝わるような気がしてなりません。毎回、こころを込めて、患者さんが元気になりますように。骨髄バンクをみんなが知ってくれますように、と願いながら走っています。これからも、機会があれば走り続けたいと思っています。


一人暮しのような生活が長かった私にとって、この入院生活はとても楽しいものでした。母のようなベテラン看護婦さん、お兄さんのような主治医の先生。そして、母と同年代の患者さんたち。私が無くした物がそこにはたくさんありました。この入院生活で私は「家族の温かさ」を感じることが出来ました。私には二度と味わう事の無いはずだったこの感覚。とても幸せな5泊6日でした。一人でさびしかった私の心にほんわりと温かさが戻ってきました。患者さんから生きる勇気と元気を頂きました。

移植した患者さんは元気になっただろうか…と気になる毎日ですが、元気になる事を信じ、そして願っています。
患者さんに会って、お礼を言いたい。「ありがとう」と。私の無くした「家族」を感じることが出来ました。生きていく勇気が、元気が出てきました。本当にありがとう。
顔も名前も分からないけれど、いつかどこかできっと会える!という確信のようなものが私の中にはあります。どこかですれ違うなんて事もあるかもしれません。そんな日がくるのを楽しみにしていたいと思います。

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